菱刺しは、昔は主に、前掛けや着物の肩袖、ももひき、手甲に施されていました。ですので、前掛けは菱刺しの中でも伝統的で代表的な作品といえると思います。今回は七時雨の自然から着想を得て制作した前掛けの模様の名前や図案、つくりについて、また、七時雨の自然について綴ります。
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七時雨
ある年の10月中旬、ちょうど、菱刺し前掛けの構想を立てていた頃でした。
岩手県八幡平市にある七時雨を訪れまして、その秋特有の種々の濃く鮮やかな色彩に触れた時、「この情景を前掛けで表現できたら・・・」と思ったのです。
七時雨山の麓には「七時雨山荘」というお宿がございます。その七時雨山荘から望む景色がこちらです。
そろそろ冬に入る季節だからでしょうか、深い色合いが、なんともぬくもりを取り込んでいるように思え、前掛けにこの色彩を施したら、色合い的にも温かみを感じる表現ができるのではないかと感じたのです。
この辺りは、七時雨山荘の他は、草原と山、大空が広がるばかりですので、雲の影が大地を流れる様子や雨の降りだす瞬間に出会うことができるのです。小さい頃に、母と雲の影を追いかけた思い出が懐かしく思い出されます。人工的な建物や人々で溢れる世界ではなかなか出会えない景色がここにはあり、空と大地はひとつであると実感できる場所なのです。
七時雨山という名前は、「一日に7回も時雨れるほど天気が変わりやすい」ということに由来するそうです。
七時雨山荘には「茶居花」というカフェも併設されており、中心にある薪ストーブが印象的なカフェです。茶居花には七時雨にまつわる本や写真が多く置かれています。
冬季道路閉鎖の為、七時雨山荘は11月~4月までお休みされます。
訪れることができるのは一年のうちの半分と思いますと、それだけ貴重な時に思えるのです。
冬を通り過ぎた、5月の七時雨山です。
この年の立夏が5月5月で、こちらを撮影した日が5月3日でしたので、暦の区分では夏の始まり目前なのですが、まだ山には雪が残っていますね。この辺りの季節の流れはゆっくりです。とはいえ、秋の深く濃い色彩と比べ、日差しも柔らかで、これから始まる新緑の季節を感じさせるかろやかさがありますね。
雪解けの季節、山の斜面に残る雪の模様を雪形といいますが、皆さまは何の形に見えますでしょうか。
初夏の淡く瑞々しい若葉の芽吹きも美しいものですが、芽を出す前の準備中の木というのでしょうか、その、一年のうちで本当に一時、幹や枝が暗めの紫色を呈するように感じ、その木々の群れの情景は、何度見ても心打ちますが、ちょうどその頃の季節です。
七時雨、名前の通り美しく、癒され、浄化されるような場所なのです。
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作品
こちらが作品になります。
1cm角 約縦7目×横9目の生成り色の麻布に、8本取りの刺し子糸を使用して刺しました。
七時雨の自然を表現しつつ、春夏秋冬も表しました。
下から、草原と春、山の紅葉と秋、空と夏、そして、一番上の丸と四角が並ぶ模様は雪や冬を表現しています。雪したく中の空、冬を待つ山、のイメージです。
草原と春を表現しました。
糸は、ログウッド染め(緑がかった茶色、璃寛茶のような色です)、渋木染め(深緑)、つきやさんの704番(薄緑)を使用しました。
山の紅葉と秋を表現しました。
糸は、つきやさんの714番(赤系)、紅花染め(黄色)、ログウッド染め(暗めの紫)を使用しました。
空と夏を表現しました。
糸は、藍染め2種と白の糸を使用しました。
雪や冬を表現したと書きましたが、実際は「くものいがき」という模様で、蜘蛛がかけた巣を表現した模様です。菱刺しは動物や植物など、自然のものたちを表現した模様が多いのです。
こちらは初めて「くものいがき」に挑戦したものでした。「くものいがき」は刺し方が独特で、菱形とも地刺しとも全く異なりますので、目の数え方や、糸の引き具合、布の張り具合に、苦労して刺したことを覚えています。
模様の名前と図案
菱の枠のことを「アシガイ」といい、アシガイのついた模様を「型」や「型コ」といいます。
前掛けに刺した型コの名前と図案を一部ご紹介したいと思います。
梅の花
「梅の花」です。
菱刺しの代表的な模様であり、梅の花のみ伝わった地域もあるほどです。とても菱刺しらしい模様ですので、模様選びの際、ひとつは入れたいと思う模様です。
猫の目
「猫の目(まなぐ)」です。目のことを青森の方言で「まなぐ」といいます。
菱の枠の部分(アシガイの部分)を少しアレンジして刺しても印象がまた変わります。
矢羽根
「矢羽根」です。
矢の先から眺めた4枚の羽根の形が表現された模様です。
矢の羽
「矢の羽」です。
矢羽根に対し、矢の羽は、矢を横から眺めた羽根2枚の形を表しています。
昆布
「昆布」です。
見方によって木にも見えたので、こちらの模様を選びました。
こちらも「昆布」です。
同じ模様でも、様々な表現をされた模様が多くあります。
つくり
菱刺しの前掛けには、様々な工夫が散りばめられています。菱刺し前掛けのつくりについてご紹介したいと思います。
前掛けの紐の部分には絣を使用しています。
前掛けを絞めた時に「くものいがき」がお腹の部分に当たります。
模様が隙間なく蜜に刺された部分は硬くなり、ゆとりを持って刺された部分は柔らかさが出ます。そのような柔らかな刺し方を「のしざし」といいます。「くものいがき」はのしざしの一種です。
お腹のふくらみに沿うように、少しひだを入れて仕立てます。
紐と布の境の部分は、ほつれてきやすいので、バイヤスに裁った布で補強します。こちらは正絹を使用しています。
裾の切れ込みの部分も同様に補強します。
紐の部分には小銭入れも施します。
前掛けの場合、菱刺し模様は端ぎりぎりまで刺します。耳の部分ではありましたが、隙間を作りすぎてしまったかもしれません。
菱刺しを施した麻布と紺色の布のはぎ合わせは、トレリスインサーション・ステッチで行っています。菱刺しを施した麻布から糸を抜いて、麻糸でステッチを行っています。
紐など、菱刺しを施した部分以外の布が傷んだ場合は、布を取り替えて使用していたようです。
また、昔は着物でしたから、伝統として伝えられている菱刺しの前掛けは、長さがあるものですが、現在では、用途によって短く作る場合もあり、時代に合わせて変化してきている部分もあるのです。
おわりに
菱刺しの前掛けについて綴りましたが、いかがでしたでしょうか。
初めて菱刺しの前掛けに触れた時も、そのつくりや施された工夫に驚きましたが、改めて菱刺しの前掛けについて考えましても、なんと奥深いのだろうと思います。
「綺麗な色の糸が手に入ったから、その糸ここに使用したのよ。この日に向けて刺した自信作なのよ」
「あの子の前掛けの色合いも素敵ね。今度真似してみようかしら」
そのような会話が聞こえてきそうです。
実際、前掛けはお洒落の一環だったようです。
伝統的な作品に触れる時、現代ほど豊かではなかった昔の方々の、何気ない日々への感謝やごく普通の毎日から紡がれる喜びや愉しむ心、ものを大切にする心、おもてなしの心などが見えてくるように思います。
そのような想いものせた作品作りをしてゆけたらと思います。
お付き合いくださいましてありがとうございました。
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